弁護士服部勇人のご紹介

弁護士になろうとしたきっかけは2つあり、一つは父親が弁護士であったからです。当時、私は小さかったのですが、事務所にはよく遊びに行っていました。困っている人のために働いたり頼りにされたりする父親にあこがれていたのだと思います。保育園のころの卒園アルバムにも、将来の夢は「弁護士」と書いてありました。

その後、小学生のころ、父は亡くなってしまいましたが、母親が働いて育ててくれました。母親は、当初、小学校の教師をしていて、その後は、弁護士のみなさんにも馴染みがある「交通事故紛争処理センター」で事務員をしていました。

いま、思えば、父母両方とも、「先生」と呼ばれる仕事とみることもできるのですが、どちらかというと、多くの人に頼りにされる仕事を父母ともにしていたのではないかと考えています。

ただ、母子家庭は、その取り巻く環境は当時から厳しかったと思います。弁護士は政治家ではないとはいえ、自分が弁護士になることで、母子家庭に関する訴訟などにも関われると思って、弁護士になったという面もあります。

これ以外に、自分なりの問題として、職務質問の濫用に疑問を持っていたことがあるかと思います。私が住んでいたところは住宅街ですが、大学が3つほどありましたので、自転車泥棒が多く、警官が自転車泥棒を捕まえようとしていたのですね。たまたま私の自転車の鍵がこわれていたので、危うく自転車泥棒にされそうになって、粗暴な警官の言動をみて、この国の法治国家は大丈夫なのだろうかと思ったところがあります。

最初から、弁護士を目指すことは、ハードルも高すぎて、躊躇があり、行政書士、司法書士試験の合格を経て⑨司法試験、ロースクールに通うようになったという流れです。

司法書士の取り組みをしているときは、自分が弁護士になるとは思っておらず、そういう意味でも、自分の法曹の原点は司法書士にあるように思っていますね。

学生時代に関しては、司法書士と司法試験の勉強をしていた想い出が中心です。ただ、途中で、大学院に入りました。

大学院では、当時は、同志社大学や京都大学から立命館に来た学生さんも多く、彼らとゼミを組むことで、とても刺激的な日々でした。

また、朝から夜まで本当に大学院に詰めていましたね。

弁護士になってからは、最初の事務所では、労働者側の労働問題を専門的に扱っていました。当時の事件の割合は、6~8割くらいは、労働事件だったのではないのかなと思います。当時は、まだ新しい制度といえた労働審判もよく行っていました。その傍らで裁判員裁判や交通事故、国選刑事をやるということでしたね。

その後、前の事務所でも、専門部が作られるようになり、交通事故のグループにも入れてもらいました。
交通事故は、名古屋や愛知では深刻な社会問題であるうえ、私自身も、ポーランドで、二度にわたって追突され、むちうちになった挙句、泣き寝入りになったという悔しい経験をしたことがあったことから、独立前後も通して力を入れてきた分野です。

法律相談にお越しになられる方には、なるべく専門用語を使わないようにして、分かりやすく説明をするよう心がけています。大事なのは、説明を正しく理解してもらうこと、その説明を踏まえて、今後どうするのではないかと思います。交通事故の相談は、専門用語も多いので、なるべくかみ砕いて説明をするようにしています。

法律相談に関しましては、なるべく早めに相談してもらえれば、どういう証拠があるのか、どのように証拠を確保することができるのか対策もできます。

交通事故に関しては、多くの国選や私選事件を通じて交通法規にも精通しています。困ったことがある場合は、相談場所として弁護士があるということを思い出していただければと思います。体調が悪ければお医者さんに行くように、解決策を知り安心するために弁護士にアクセスして欲しいと思います。

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